平凡日誌

Webショップ「平凡」店主の日々の記録です。

ほどよく暑い

毎朝のラジオ体操が夏休み仕様になり、土曜日の今日は子供達の声がはち切れんばかりでとても可愛かった。子供って加減を知らないから本当に可愛いな。加減なんかいらないんだ、そもそも。

最近は、何の流れなのか自分の根っこを思い出すような事が多くて、江戸の黄表紙を読んでいる。滑稽が過ぎる裏の、作者の鋭いというか冷静というか哀しみというか、しかしラジオ体操の子供を可愛いと思うような馬鹿な人間に対する愛みたいなものを感じる。

結局は人生なんて無駄な暇つぶしよ。全て夢と幻よ。で、これ読んで笑ってるあんたはいったい何者なんだい?

今日読んだ『江戸生艶気樺焼』の金持ち息子の突き抜けた酔狂ぶり。お金とか、情欲とか、見栄とか。お金があるから何でもできて、実際お金があればやれないことはない。遊郭で遊ぶことも、焼き餅やかれることも、貧乏になることも、心中でさえお金使えばできるのに結局死ぬのは嫌で、着物剥ぎ取られて素っ裸でとぼとぼと家に帰る。

その素っ裸シーンで笑ってしまったけど、その笑いは馬鹿だなっていうより、頑張れに近いような気がした。

自分のその気持ちを感じたときに、私は誰かを馬鹿にした笑いは大嫌いなんだけど、江戸の本や落語に出てくる熊さん八つぁん的な笑いは大好き。何が違うのかと考えたら、私の中にもその馬鹿な部分があって、でも世間体でそこは隠さねばと頑張っていて、その隠したい部分を盛大に馬鹿な登場人物がやってくれるから笑ってしまうんだな、と思った。自分や人間の欠陥に対する愛。

もしその馬鹿な登場人物を誰も笑ってくれなかったら。笑ってはいけないと強要されたら。私の欠陥は、愛されないものとなる。

馬鹿にしてるのか、愛なのかは、自分の感覚を豊かにすればはっきり分かることなのに、現代は感覚が鈍っているからその違いは紙一重になって、なんでもかんでも駄目だ駄目だと御触れを出しているんだろう。なんと息苦しい世の中だ。

…とまぁそんなことを考えた。また酒場のおっさんの戯言。私の中のおっさんよ、またチビチビと酒を飲もうじゃないか。