平凡日誌

Webショップ「平凡」店主の日々の記録です。

雨が強い

私は、人間よりも植物に心を開いている。私にとっての植物はもう人間以上なので、飾るとかが苦手なレベル。地面から生えている君達が一番好きだからそのままでいてくれ的な。

昔働いていた職場ではテーブルにいつも枝を飾っていて、朝山に行き枝を取ってきてから出勤していた。

その時の感覚を振り返ったときに、ネイティブアメリカンの薬草摘みに似てたのかもしれないと思った。

林に入り、どうやって枝を探していたかというと、葉っぱの向きとか、種類とか、格好がいいかとかは全く考えてなかった。頭は全く働いてない。

木を見るともなく見て、木に語りかけるでもなくただ心を開いていると、声が聞こえてくる。

「いらっしゃい。これから仕事なら、この枝切ってもいいよ。ここだよ。」

言葉にするとそんな風に切ってもいい枝が目に入ってきて、わかったありがとう、と答えてから枝を切る。その当時は無意識にやってた(だから、枝の取り方とか飾り方とか教えるのが難しかった)けど、はっきりとした違いが今なら分かる。

遅刻しそうとか、焦った気持ちで心をちゃんと開かずに頭を使って選んだ枝は、飾ろうにもうまく形が決まらずこねくりまわす。どうやってもしっくりこなくて、枝に申し訳なくなる。無理矢理切ってごめんね、と。誰もいいよと言ってくれないのに、どうしても飾らないといけないから切ってしまった時も同じ。

心を全開にして、切っていいよと言われた枝を感覚で選んだ時は、そのまま大きな花器に挿しただけでバシッと決まる。自分が手を入れなくても勝手に格好いい。そして、枝を伸ばした葉っぱたちが、空間までも綺麗にしてくれる。働く私も楽しい。

それは、私と木との信頼関係だろう。誰にも分からないし言っても伝わらない。でも、私にとって木達はおじいちゃんみたいなもので、小さいときから私を守ってくれていた。生かしてくれたと言っても過言ではない。

植物たちは、とても優しいから何でも言うことを聞いてくれる。だから、その優しさに出来る限り優しさで答えたい。飾って生活を彩るよりも、そこら辺にボーボー生えてる姿を見てた方が私は癒されるんだよなぁ。

あの時、誰も切っていいよと言わなかったから今日は飾りません、と言えたならな。

 

だから、手作りの野菜が何故美味しいのかといえば(大量生産ではなく個人の畑)、肥料とか農薬とかの問題ではなく、本人に自覚がなかろうとも野菜達は作り手を信頼してるし自分の役割もわかってるから、美味しさをちゃんと表現してくれるのだと思う。愛の塊。

 

そんなことをなんかつらつら考えた大雨の夜。