平凡日誌

Webショップ「平凡」店主の日々の記録です。

秋晴れ

謎に一昨日のブログがすごい見られてたんだけど、なんなんだろう。いつも2、3人だからびっくりして、あんなこと書かなくてよかったな~とか無駄に体裁を考えたりする。

今日思ったのは、私の生活、蕎麦屋があれば他は結構いらないかも、ということ。

東京のとある老舗の蕎麦屋に先日行き、いつも16時ぐらいの暇な時間に行ってるのにランチタイムど真ん中に行ったら、めちゃくちゃ行列だった。びっくりした。観光客いっぱいだった。カオスだった。

しかし、もう私はそこでの自分の過ごし方を見つけているので、迷わず日本酒とつまみを頼み、そば味噌とつまみと日本酒でちびちびやりながら〆にもり蕎麦をすする。昼だから長居はせずに、蕎麦湯でつゆを飲み干して、ごちそうさまでした。

(ここで、昼時に酒とつまみなんてマナー違反だとか、そういう蕎麦屋で過ごす皆のルール的なものがあるのかないのかは知らんけど、そんなものは知らん)

店内は夕方とは全く違う雰囲気で、てんやわんやのガヤガヤなんだけど、私に迷いはないので何にも影響されずに過ごすことができた。

型があるってすごいことなのかも。きっとあの中で想定外の出来事が起こったとしても、動じずに対応できる自信がある。

その型っていうのは、人に言われてただやっていることではなく、自分の内とズレのないものでないと効果がないんだと思う。それってきっと、茶道とかの型を体に染み込ませて行くことと同じな気がする。

でもそれは一回で決まるものではなくて、失敗したり空回りしたりしながら見つけていくもの。

そんな型を見つけて過ごす時間というのは、自分があるような無いような、店の喧騒と一体になってしまったような、そんな不思議な心地よさがある。そして、私だけの過ごし方の型を見つける間もお店が在り続けていることへの奇跡と感謝。

私は、そこに店員さんとの絡みが入っちゃうと二度と行けなくなるタイプなので、大衆的な店は私に構わず過ごさせてくれるから、とてもありがたい。こういうタイプは少数派なのか、そういう客にいい意味で無関心な店がどんどんなくなっていってるのは悲しいが、東京の古い店はそういう空気がまだあるから心地よい。

が、しかし、やはり江戸の蕎麦屋は17時前に入って一杯やるのが最高の過ごし方だ。酒が目当てのお年寄りに囲まれ、ほんのり酔ってきた体に入るそばの喉ごしの気持ちよさよ!染みわたる蕎麦湯よ!日本人でよかった~