平凡日誌

Webショップ「平凡」店主の日々の記録です。

雪予報

最近、全く旅に出ていない。富士吉田も奈良も岩手も、最後に行ったのは何年前か。

初めて1人で富士吉田に行ったのは2008年か2009年ぐらいで、その頃は免許を取っていなかったので電車を乗り継いで辿り着いた。辿り着いたはいいが思いの外駅周辺には何もなく、店もなく、駅から脇に入った寂れたビジネスホテルに1人で泊まった記憶がある。飲食店も何もなく、遠くのコンビニまで真っ暗になった通りを怖くて駆け足になりながら夕御飯を買いに行った。

目的地だったと思う忠霊塔もたまに散歩やランニングの人が来るぐらいで誰もおらず、目の前にドーンとそびえる富士山を、木のベンチに座り何時間も日が暮れるまでぼーっと見た。ただそれだけの旅。

その後毎年のようにそのベンチに座りに旅に出た。その度に店が増え、駅が綺麗になり、寂れた店はなくなり、人がだんだん増え、最後に行った時は忠霊塔の公園はガイドブックにでも載ったのか、外国人で溢れかえっていた。

でも、いつものベンチは、いつでも私を待っていたかのようにそこにあり、いつもその場所だけ誰もいない。ベンチに座ると、生えている木々があぁよく来たねと風に揺れながらそっと側にいてくれる。そしていつもの通り、何時間もそこで私は富士山と会話をする。

中宮寺弥勒様、富士山、羅須地人協会は、私の三大心の故郷。そろそろ弥勒様に近況報告しに行かないと。あんただいぶご無沙汰だけど相変わらず煩悩でいっぱいだねぇ、と笑ってくれそうだ。

晴れ

最近の音楽をまったく聴かないもので、たまに昔聴いていた音楽を聴きながらなんとなくアルバムの発売日なんかを見ると驚愕する。20年前か!とか。

そりゃそうなんだけど、自分の親も、私ぐらいの年に、何気なくよく聴いていた曲を聴いた時にもう20年前かよ!とか思ってたのかなぁと考えると、不思議な気持ちになる。

古いと思われてるものを古いと思えないのは私の思い込みかはたまた本当に古びてないのか。それはそれぞれの感覚でしかないんだけど、それぞれの感覚が一番大事なわけです。

でも結局、20年前であることに変わりはないのだ。いやぁ本当に遠くまで来たもんだ!

晴れ→曇り

前回のブログに、このしょうもないグルグルの世界から抜け出すにはどうしたらいいか、的なことを書いたけど。

「平凡」

これじゃないか。

私の、なるべく知られたくないような、PEOPLEありきでやっている、他人任せのような、私らしさ全開のような、何にも似ていないような、恥ずかしいような小さな店。

そんな感じでやっている平凡を、なぜ平凡と名付けたか。平凡こそ、この狂気の渦から抜け出す鍵なのでは。なんでもないこと。着飾った裏側の、ボサボサでみっともなさ全開の誰にも見せることのない日常。だからこそその人にしかない輝きの出るもの。

どこにも出掛けないから寝間着のままでご飯食べたり、誰にも会わないから度のキツイ眼鏡で不細工になったり、お腹を壊してトイレにこもったり、明日も予定ないからって風呂も入らずに寝ちゃったり、汚い言葉で誰かへの怒りを発散してみたり。

私は人間のそういう所に惹かれる。そして、それはそれぞれにしかない「平凡」だ。

誰にも見せることのない、私にしかない私だけの平凡な毎日を、どうしようもなく悲しいくらい愚かでも愛すること。それがクソみたいな世界の渦から抜け出す大事な鍵のような気がした。

雪が降りそう

もう、私は今日1日で、ほとほとこの社会的システムが嫌になって、結局この輪の中にいる限り籠の中の鳥であり、井の中の蛙というか、何をやってもこのシステムに組み込まれている限りは結局同じなんだということを思い知った。

つまらん。超つまらん。超絶つまらん。偉そうにしたって、頭よさそうにしたって、いい人だって悪い人だって、一見特別そうな違う世界にいるような人だって、素敵に暮らしてそうなあの人だって、結局このグルグルの中にいるんだ。あぁほとほとつまらん。

どうやったら抜け出せるのか。どうやったらこのクソつまらん社会システムから脱出できるのか。

ちょっと酔っぱらって口が悪くなってきたので、畳にごろんと横になって天井を眺めていたときに閃いた。モモだ。モモは物語のラスト、早く進むために極限まで遅くゆっくり歩いたんだ。そうだ、きっとそういうことだ。

抜け出したい世界と真逆のことをやれば、違う世界に行けるのではないか。逆だ。今まで当たり前のようにやってきたことの、逆だ。

風が吹いた。進むはそちらの方だ。明日はモモを読み返そう。

寒い

雪予報だけど、まだ雨。

最近セーターを編み始めた。シンプルで編みたかったパターン。いい感じに出来上がったら、もう今後の冬はセーターだけでいいってぐらいに何着か編みためたい。靴下は、ベストパターンが見つかったと思いきや、またしてもかかとの編み方で悩み始める。今やってる編み方だとかかとにめっちゃフィットするんだけど、ちゃんと履かないとずれる感じがする。以前編んでた編み方はすごい簡単で市販の靴下と同じ形なんだけど、適当に履いてもおさまりがいい気がする。

履いた時の姿や足の包まれ具合は前者なんだけど、日々履くためや編むための条件は後者の方が強い。今編んでるものが完成したら、前のかかとに戻して編んでみようと思う。まぁ、セーターが完成するまでやらないんだろうけども。

正月も終わったけど、まだ2023が続いてるような感覚。きっと今年は春分まではこんな感覚な気がする。少しずつだけど、変わっている感じもする。

風強し

1年で最も時間の流れが遅くなる、正月。今年も裏切らず、1ヶ月ぐらいたったような気分なんだけど、今日で8日目。

元旦に散歩がてら立ちよったLAWSONでなんとなしに買ったティラミスクッキーシュークリームがツボな旨さで、次の日また買おうとしたらない。近場のLAWSONを捜索するも、ない。LAWSONのホームページを見ると商品自体のページも、ない。

ティラミスクッキーシュークリームだけじゃなく、私が好き!ってなったものは直後に姿を消す場合がかなり多い。それ自体がなくなったり、存在が変わってしまったり。

パスコのパンも、アイスクリームも、パン屋さんも、居酒屋も、喫茶店も…なんとも嬉しくない話。

そういや、好きな日本のバンドのボーカルも皆死んじまった。フィッシュマンズも、フジファブリックも、ミッシェルも。フジファブリックのメジャーデビューアルバムが20年前で、志村さんが死んだのが15年前なんて、今年の正月はこんなに時間が遅いのになんという早さだ。どういうことだ。いつの間に年をとったのだ。というか、志村さんの活動期間が10年もなかったことに驚く。

15年間を思い返すと、まぁ色々あったけど、なんかずっと重さがあった。ホロスコープの話で、今年は15年の区切りの時だって前に書いた気がする。冥王星だっけな、志村さんは前回のその動きの時に死んじまったわけだな。私も、15年前からずっと地底人だった気がする。確かに、15年前に地底潜っとくか色々疲れたから、みたいな出来事はあったな。

太陽が恋しい、新鮮な空気を腹一杯に吸い込みたい、でも明るい場所に出るのがすごく怖い。しかし、もうそろそろ地上に出て空気吸わないとつまんないしもう地底飽きたわ、って気持ちになっているから、今年は地上に出たい。

なーんてことを考えながらせっせと大根をすりおろしていたら、13年前に働いていた居酒屋の厨房で、自動大根おろし機で大根おろしを作るときに毎回もしもここで指も一緒にすりおろしたら…と想像して恐ろしい気持ちになっていたことを思い出した。気難しいけど優しい重鎮のおばあちゃんと、気さくなおばさんと、自主制作演歌CDをくれたおじちゃんと、姉御肌のヤンキー姉さんと、どんくさいけど愛されキャラの兄さんと、ホールの大学生達と。

働くって楽しいって思っていたあの頃。よく仕事帰りに隣の爆弾ハンバーグで姉御と兄さんと日付変わってもポテトつまんでダラダラ喋ってたなぁ。大学生達と朝まで飲んだりもしてた。とても懐かしい。

また新年からだらだら書いてしまった。あの頃の自分を地上に置き忘れてきた気がするから、今年は久しぶりだなって再開したい。

発熱

21日になんか体に違和感があって、22日発熱と共にうなされる。体温計がなかったので23日買ってきて計ると38度。その後38.5度を維持し続け、これはもしや体温計が壊れてるんじゃないか?と疑い始めた25日午後、やっと37度台を記録。熱が下がってきたことより体温計が壊れてたわけじゃなかったことに安心しつつ、翌26日にはついに36度5分の体温へと着地。

食欲が全くなくなることへの不思議と、発熱の頭痛中ずっと私の頭の中に、山積みの商品を1個1個箱にきれいに素早く梱包してパレットに積んで、ひと山出荷して一段落、みたいなイメージが延々わいていたことへの謎。

今朝は、実家の玄関に白い蛇が十匹三角に並んで黄色やピンクにピカピカ光る夢をみて目が覚める。しかし、年末ジャンボはもう終わっていた。

発熱中は、スマホそのものを見るだけで頭痛が激しくなって辛いので何もできなかった。そしたら、3日で充電は半分も減ってなかった。きっと、体の回復にスマホは毒なんだと思う。

回復したけど、動きがおばあちゃん以上にゆっくりしかできなくて、ゆっくりゆっくりやっているんだけど、ゆっくりやっていたら、自分の子供の頃はこんなテンポでなんでもやっていたような気がする、ということを思い出した。目の前の世界が謎に満ちすぎていて、それは例えば畳の目のひとつひとつや靴下を履く時の自分の足に対してや、それをしている時の背景のひとつひとつというようなとても細かいことそれら全てを私は何も知らなくて、それを感じることが私はしたいんだ、というような。早くしなさいとか、他にもっとやることや素晴らしいことがあると言われ続けてきたけれど、結局一番大切だったのは、今のこの世界を充分に感じて味わえているのか、ということなんだと思う。誰もそんなこと教えてくれなかったぜ。どこかにお菓子で出来た家があって、そこに行けば一生遊んで暮らせるなんてそんなお伽噺を今でも大人の方が真面目に信じているんだからね。

今、畳の目に太陽の光があたっている不思議と美しさ。そりゃ、そんなことに気を取られていたらあっという間に皆に置いていかれるんだろうけど、今の私にはそれが本当の宝物だと思う。